今月初めに開催された国際会議「占領下における対話」でのジョン・ミッチェル氏の「沖縄の枯葉剤」の発表は、県内ニュースをかけめぐり、日本政府も、沖縄における枯葉剤の使用の事実を米国に問い合わせるまでとなりました。
ジョン・ミッチェル氏のジャパンタイムスへの特別寄稿文(2011年8月13日、2011年4月12日) の和訳をここに掲載します。和訳は、どちらも「合意してないプロジェクト」阿部小涼さん提供です。
©Sunao Tobaru DUO初日、沖縄にて作業中のジョン・ミッチェルさん。 |
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エージェント・オレンジを沖縄で埋却、退役軍人が語る/
元兵士は米国がベトナム戦争時の枯葉剤を使用し廃棄したと主張
2011年8月13日
ジョン・ミッチェル
ジャパンタイムズへの特別寄稿
Agent Orange buried on Okinawa, vet says
Ex-serviceman claims U.S. used, dumped Vietnam War defoliant
By JON MITCHELL
August 13, 2011
Japan Times article is here
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1960年代末、米軍は有害な枯葉剤「エージェント・オレンジ」の入った数十本のドラム缶を沖縄島の北谷町付近に埋めたと、米退役軍人がジャパン・タイムズ社に語った。
元兵士のこの主張よりわずか数日前、松本剛明外相は、1945-72年までの27年間の占領期に沖縄で使用した化学物質について明らかにするよう米国防省に対して求めていると語った。米政府は、沖縄におけるエージェント・オレンジの使用については記録がないと繰り返し主張し続けているのである。
元兵士の証言は、沖縄における関心を大いに高めるだろう。エージェント・オレンジは発がん性のダイオキシンを高濃度に含有し、数十年は土壌や水に残留する可能性がある。元兵士がドラム缶が埋められたと主張する場所は、人気の観光地や住宅地域に近い。
匿名での報道を求めているこの61歳の元兵士は、1968年から70年に沖縄に駐留し、米陸軍補給地区でフォークリフトを操作していた。この間、彼はエージェント・オレンジを含む補給物資を那覇港へ向かうトラックに搬入する作業に従事し、積荷は那覇港からベトナムへ輸送されていた。
元米兵は、1969年に補給船が座礁した際、その引き揚げ作業に加わらなければならなかったという。
「島中から作業員が那覇港に集められた。ボートを岩礁から降ろすのに、2、3日を要した。エージェント・オレンジのドラム缶が一杯に詰まったコンテナがいくつも破損していた。55ガロン(208リットル)缶には、オレンジの縞がぐるりと描かれてあった。破損して流れ出していたものもあり、私たちはみんなそれを浴びたのです」と、彼は語った。
破損したドラム缶の除去のあと、この元兵士は、米軍がそれらを広い敷地に埋却するのを目撃したと主張している。「彼らは長い溝を掘った。150フィート(46メートル)以上はあっただろう。クレーンが複数台あって、コンテナをつり上げていた。そして、中のドラム缶をぜんぶその溝に揺すり落とした。その後、土で埋めたのです」。
別のふたり、元米兵のマイケル・ジョーンズ氏と港湾作業に従事したジェイムズ・スペンサー氏が、ジャパン・タイムズのインタビューに答えて、何千缶もの除草剤の輸送拠点として那覇港が使われていたという元米兵の主張を裏付けた。スペンサー氏はまた、1969年の引き揚げ作業で座礁船からコンテナを積み降ろすところを目撃している。ただし、コンテナの中身が何であったかははっきり判らないと語った。
しかし、証言を行った元米兵は、確信を持っている。「あれはエージェント・オレンジだった。マチナト(補給地区)で(ドラム缶を)扱ったときの臭いで判ったのだ」。
救援作業の際に枯葉剤のダイオキシンを浴びたため、この元米兵は脳卒中と塩素座瘡を含む、深刻な病状に悩まされている。米国退役軍人省(VA)は、病気を患った退役軍人の補償を担当する窓口で、エージェント・オレンジ被曝の治療費として退役兵に対し月1000ドル以上を給付する。
しかしVAは、彼がベトナムに駐留した6ヶ月の間にダイオキシンに被曝したのだと主張している。
1991年に米連邦議会を通過したエージェント・オレンジ法の下で、ベトナムに派遣された経験のあるすべての米兵は枯葉剤と接触した可能性があるとみなされ、医療給付と補償を受ける資格を得た。
だが、エージェント・オレンジは沖縄に保管されたことはないと否定しつづけるペンタゴンのせいで、これらの補償が、この島でダイオキシンに被曝したと主張する元米兵には支払われない。
証言をした元米兵は、特に、駐留米軍の再編交渉が進行中の現在、沖縄をめぐって日米関係が神経過敏になっている時期に、この問題について語ることの危険性には気付いていると話した。「この件で実名が公表されれば、私の給付金は取り上げられてしまうかもしれない」。
2002年、沖縄県政は、北谷地域で内容不明の多数のドラム缶を発見したが、これは元米兵が目撃したと主張している掘削された溝の場所に近い。北谷町役場に近い筋の人物の話によれば、ドラム缶が発見された後、那覇を拠点とする沖縄防衛局(*当時の那覇防衛施設局のこと)がすぐに押収し、これは現在の防衛省の管轄下にある。
「私は北谷町の基地問題担当に、防衛施設局からの報告書を持っているかどうか問い合わせたが、答えはノーだった。町は、いまだに内容物が何であったのか知らないし、ドラム缶がどのように処理されたのか、防衛施設局が内容物についての調査を行ったのかどうかも判らない」と、その人物は語った。
この6ヶ月間で、ジャパン・タイムズ社が集めた12名の元米兵からの直接の証言によれば、1960年代半ばから1975年にかけて、嘉手納空軍基地、普天間飛行場など沖縄の9カ所の米軍施設でエージェント・オレンジを貯蔵し、噴霧し、輸送したとのことである。
証言に名乗り出た人々のうちのひとり、61歳の元米空軍整備兵ジョー・シパラ氏は、泡瀬通信施設の周囲で雑草を除去するために、定期的に枯葉剤を噴霧したという。また、キャンプ・シュワブ所属の海兵隊員であったスコット・パートン氏は、1971年、何十というエージェント・オレンジのドラム缶を基地内で見たと証言している。ふたりの証言は、沖縄で撮影された枯葉剤のドラム缶の写真によって裏付けられている。ふたりとも現在、2型糖尿病や前立腺疾患など、枯葉剤に接したことが原因の深刻な病状にあり、シパラ氏の子どもたちには、ダイオキシン被曝で起こる奇形の症状が現れている。ところが、VAはかれらの申請を却下し続けている。これは、米国防省が、枯葉剤の沖縄での存在を認めようとしないためである。
これら12名の元米兵の説明が示すのは、ベトナム戦争時、この島でエージェント・オレンジが広範囲に使用されていたということである。枯葉剤は、北部のやんばる地域から南部は那覇港まで、大量に貯蔵され使用されていたと彼らは語っている。枯葉剤の発がん性について充分に明らかになったのは、1980年代半ばになってようやくのことであった。
沖縄の人々は、この問題に関心を持っている。エージェント・オレンジが噴霧された9カ所の基地のうちのひとつに近い小学校に勤めていたという退職教員は、最近、彼女の教え子たちに白血病で亡くなった者が多いことを説明してくれた。白血病は、ダイオキシン被曝に由来すると米国政府が認めている病状に含まれている。
名護市議の大城敬人氏は、名護にあるキャンプ・シュワブで多数のドラム缶を見たという元海兵隊員パートン氏の主張について、調査を要求した。
米軍が有害廃棄物の処理についてこのように糾弾されるのは、これが初めてのことではない。
2005年、アラスカのフォート・メインライトでは、建設業者が宅地造成予定地の地下からPCB汚染された何トンもの土を発見したことが大々的に報道された。今年の5月には、3人の退役軍人が、1978年に韓国のキャンプ・キャロルでエージェント・オレンジのドラム缶を埋却する作業をしたと主張した。ペンタゴンは現在、この主張について調査中である。
沖縄国際大学で環境法を専門とする砂川かおり氏は、エージェント・オレンジによる汚染の可能性について関心を寄せている。「沖縄の人々は、この件について真実を知る必要がある。政府は汚染が広がっているかどうか調査を実施すべき。今も健康や環境への危険性があるのかどうか、私たちは知る必要がある」と彼女は語った。
米退役軍人たちが、その健康被害と正義の闘いを語る」
ジョン・ミッチェル
2011年4月12日
『ジャパン・タイムズ』への特別寄稿
元兵士のこの主張よりわずか数日前、松本剛明外相は、1945-72年までの27年間の占領期に沖縄で使用した化学物質について明らかにするよう米国防省に対して求めていると語った。米政府は、沖縄におけるエージェント・オレンジの使用については記録がないと繰り返し主張し続けているのである。
元兵士の証言は、沖縄における関心を大いに高めるだろう。エージェント・オレンジは発がん性のダイオキシンを高濃度に含有し、数十年は土壌や水に残留する可能性がある。元兵士がドラム缶が埋められたと主張する場所は、人気の観光地や住宅地域に近い。
匿名での報道を求めているこの61歳の元兵士は、1968年から70年に沖縄に駐留し、米陸軍補給地区でフォークリフトを操作していた。この間、彼はエージェント・オレンジを含む補給物資を那覇港へ向かうトラックに搬入する作業に従事し、積荷は那覇港からベトナムへ輸送されていた。
元米兵は、1969年に補給船が座礁した際、その引き揚げ作業に加わらなければならなかったという。
「島中から作業員が那覇港に集められた。ボートを岩礁から降ろすのに、2、3日を要した。エージェント・オレンジのドラム缶が一杯に詰まったコンテナがいくつも破損していた。55ガロン(208リットル)缶には、オレンジの縞がぐるりと描かれてあった。破損して流れ出していたものもあり、私たちはみんなそれを浴びたのです」と、彼は語った。
破損したドラム缶の除去のあと、この元兵士は、米軍がそれらを広い敷地に埋却するのを目撃したと主張している。「彼らは長い溝を掘った。150フィート(46メートル)以上はあっただろう。クレーンが複数台あって、コンテナをつり上げていた。そして、中のドラム缶をぜんぶその溝に揺すり落とした。その後、土で埋めたのです」。
別のふたり、元米兵のマイケル・ジョーンズ氏と港湾作業に従事したジェイムズ・スペンサー氏が、ジャパン・タイムズのインタビューに答えて、何千缶もの除草剤の輸送拠点として那覇港が使われていたという元米兵の主張を裏付けた。スペンサー氏はまた、1969年の引き揚げ作業で座礁船からコンテナを積み降ろすところを目撃している。ただし、コンテナの中身が何であったかははっきり判らないと語った。
しかし、証言を行った元米兵は、確信を持っている。「あれはエージェント・オレンジだった。マチナト(補給地区)で(ドラム缶を)扱ったときの臭いで判ったのだ」。
救援作業の際に枯葉剤のダイオキシンを浴びたため、この元米兵は脳卒中と塩素座瘡を含む、深刻な病状に悩まされている。米国退役軍人省(VA)は、病気を患った退役軍人の補償を担当する窓口で、エージェント・オレンジ被曝の治療費として退役兵に対し月1000ドル以上を給付する。
しかしVAは、彼がベトナムに駐留した6ヶ月の間にダイオキシンに被曝したのだと主張している。
1991年に米連邦議会を通過したエージェント・オレンジ法の下で、ベトナムに派遣された経験のあるすべての米兵は枯葉剤と接触した可能性があるとみなされ、医療給付と補償を受ける資格を得た。
だが、エージェント・オレンジは沖縄に保管されたことはないと否定しつづけるペンタゴンのせいで、これらの補償が、この島でダイオキシンに被曝したと主張する元米兵には支払われない。
証言をした元米兵は、特に、駐留米軍の再編交渉が進行中の現在、沖縄をめぐって日米関係が神経過敏になっている時期に、この問題について語ることの危険性には気付いていると話した。「この件で実名が公表されれば、私の給付金は取り上げられてしまうかもしれない」。
2002年、沖縄県政は、北谷地域で内容不明の多数のドラム缶を発見したが、これは元米兵が目撃したと主張している掘削された溝の場所に近い。北谷町役場に近い筋の人物の話によれば、ドラム缶が発見された後、那覇を拠点とする沖縄防衛局(*当時の那覇防衛施設局のこと)がすぐに押収し、これは現在の防衛省の管轄下にある。
「私は北谷町の基地問題担当に、防衛施設局からの報告書を持っているかどうか問い合わせたが、答えはノーだった。町は、いまだに内容物が何であったのか知らないし、ドラム缶がどのように処理されたのか、防衛施設局が内容物についての調査を行ったのかどうかも判らない」と、その人物は語った。
この6ヶ月間で、ジャパン・タイムズ社が集めた12名の元米兵からの直接の証言によれば、1960年代半ばから1975年にかけて、嘉手納空軍基地、普天間飛行場など沖縄の9カ所の米軍施設でエージェント・オレンジを貯蔵し、噴霧し、輸送したとのことである。
証言に名乗り出た人々のうちのひとり、61歳の元米空軍整備兵ジョー・シパラ氏は、泡瀬通信施設の周囲で雑草を除去するために、定期的に枯葉剤を噴霧したという。また、キャンプ・シュワブ所属の海兵隊員であったスコット・パートン氏は、1971年、何十というエージェント・オレンジのドラム缶を基地内で見たと証言している。ふたりの証言は、沖縄で撮影された枯葉剤のドラム缶の写真によって裏付けられている。ふたりとも現在、2型糖尿病や前立腺疾患など、枯葉剤に接したことが原因の深刻な病状にあり、シパラ氏の子どもたちには、ダイオキシン被曝で起こる奇形の症状が現れている。ところが、VAはかれらの申請を却下し続けている。これは、米国防省が、枯葉剤の沖縄での存在を認めようとしないためである。
これら12名の元米兵の説明が示すのは、ベトナム戦争時、この島でエージェント・オレンジが広範囲に使用されていたということである。枯葉剤は、北部のやんばる地域から南部は那覇港まで、大量に貯蔵され使用されていたと彼らは語っている。枯葉剤の発がん性について充分に明らかになったのは、1980年代半ばになってようやくのことであった。
沖縄の人々は、この問題に関心を持っている。エージェント・オレンジが噴霧された9カ所の基地のうちのひとつに近い小学校に勤めていたという退職教員は、最近、彼女の教え子たちに白血病で亡くなった者が多いことを説明してくれた。白血病は、ダイオキシン被曝に由来すると米国政府が認めている病状に含まれている。
名護市議の大城敬人氏は、名護にあるキャンプ・シュワブで多数のドラム缶を見たという元海兵隊員パートン氏の主張について、調査を要求した。
米軍が有害廃棄物の処理についてこのように糾弾されるのは、これが初めてのことではない。
2005年、アラスカのフォート・メインライトでは、建設業者が宅地造成予定地の地下からPCB汚染された何トンもの土を発見したことが大々的に報道された。今年の5月には、3人の退役軍人が、1978年に韓国のキャンプ・キャロルでエージェント・オレンジのドラム缶を埋却する作業をしたと主張した。ペンタゴンは現在、この主張について調査中である。
沖縄国際大学で環境法を専門とする砂川かおり氏は、エージェント・オレンジによる汚染の可能性について関心を寄せている。「沖縄の人々は、この件について真実を知る必要がある。政府は汚染が広がっているかどうか調査を実施すべき。今も健康や環境への危険性があるのかどうか、私たちは知る必要がある」と彼女は語った。
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「沖縄におけるエージェント・オレンジの証拠:米退役軍人たちが、その健康被害と正義の闘いを語る」
ジョン・ミッチェル
2011年4月12日
『ジャパン・タイムズ』への特別寄稿
Evidence for Agent Orange on Okinawa to their health and their struggle for justice
U.S. veterans speak about its harm
By JON MITCHELL
Special to The Japan Times
By JON MITCHELL
Special to The Japan Times
Japan Times article is here
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1960年代末、ジェイムズ・スペンサーは沖縄の軍港で働く米海軍の港湾労働者だった。
「この頃、私たちはあらゆる種の積荷を扱っていました。オレンジの縞模様の入ったこの缶も含まれていました。荷下ろしのときに、それがこぼれて『エージェント・オレンジ(Agent Orange: ヴェトナム戦争時、米軍が使用した枯葉剤のひとつ)』をかぶっていたのでしょう。まさに雨を浴びるようにね」。1965年から1967年の間、ラマー・スリートはこの島のキャンプ・クエの衛生兵だった。
「エージェント・オレンジは嘉手納(空軍基地)に貯蔵されていて、沖縄の植生管理に使用されていました。私は個人的に軍病院の グラウンドの周囲で噴霧作業班を見かけたことがあるし、服に枯葉剤が染みこんだ作業員がER(救急救命)に運び込まれたときに、その場に立ち会ったこともあります」。
1970年、ジョー・シパラは、沖縄本島中部にある泡瀬通信施設に勤務していた。
「アンテナは『ミッション・クリティカル(mission critical: 24時間365日稼働を要求される基幹的システム)』に分類されていたため、周囲に雑草が生い茂ることは許されません。数週間おきにトラックが来て、この施設のエージェント・オレンジの缶を充填していました。それを混合して境界線のフェンス周辺の雑草に噴霧するのが私の担当でした」。
『ジャパン・タイムズ』紙のためにインタビューに答えたこの3人の退役軍人だけでなく、退役軍人管理局(V.A.)の記録には、1960年代末から1970年代初頭にかけて沖縄で使用されたエージェント・オレンジについて、数百に上る同様の証言が存在する。
当時、この島は米国支配下にあり、ヴェトナムにおける米国の戦闘の前線基地としての役割を担わされていた。
これらの証言が明らかにするのは、ダイオキシンを含む枯葉剤が、戦闘地域に移送される前に、沖縄に大規模に貯蔵されていただけでなく、軍事施設の除草や、北部の山原(やんばる)のジャングルでの実験に定期的に使用されていたという事実である。
島におけるこの長期で広範囲にわたるエージェント・オレンジの使用は、それを取り扱った兵士の多くに深刻な病状をもたらした。
スペンサー、スリート、シパラは、現在、癌、2型糖尿病、虚血性心疾患など、止めどなく続くダイオキシンにまつわる症状に悩まされている。
さらに、シパラの死産となった最初の子は、赤ん坊が日の目を見なかったことを感謝するべきだと医者に言われるほどの奇形で、生誕したふたりの子どもはエージェント・オレンジによる中毒症状と合致する奇形に冒されている。
もしもかれら退役軍人たちが、ヴェトナムで[枯葉剤を]浴びていたならば、米国政府は有害な枯葉剤に接したすべての兵士を承認しているため、V.A.による医療費の補助を受けることができただろう。
しかし、かれらは沖縄で被害に晒されたために、その補償要求は、この島でのエージェント・オレンジの存在を認めない国務省のために、繰り返し拒絶されてきた。
2004年7月、統合参謀本部議長リチャード・マイヤーズ大将が、政府の「記録には沖縄におけるエージェント・オレンジやその他の枯葉剤の貯蔵や使用を裏付ける情報は一切ない」と発表したのは、こうした姿勢を示すもっとも最近の一例である。
このような否定のために米退役軍人がV.A.から補償を勝ち取るのが困難になっている。
シパラの例は、退役軍人が向き合う困難を如実に示している。
彼の軍命令書は、当時かれが沖縄に駐留していたことを示しているし、彼の病歴は、ダイオキシン被曝の症例に合致する。
バイクに乗ってエージェント・オレンジの缶の横を通り過ぎる彼の写真は、決定的証拠として、彼のケースが退役軍人たちを代表すべきことを物語っている。
11ヶ月に及ぶ協議の後、V.A.は、二つの根拠を挙げてシパラの要求を拒絶した。
第一に、被曝によって病気が進行したという証拠がない。
シパラはこれに反論している。「沖縄から帰還した直後に糖尿病を発症したことは、私の医療記録から明らかです。なぜその当時の医者は、それがエージェント・オレンジによるものだと言わなかったのでしょうか。それが1970年のことで、まだ誰も被曝の危険性についてよく知らなかったからです。」
第二に、V.A.は、「日本の沖縄における、あなたの隊の兵員による、エージェント・オレンジの噴霧、試験、貯蔵に関するいかなる証拠も見つけることができなかった」と言った。
この言葉は、V.A.が却下する際に共通の表現で、そのことが、シパラを困惑させた。
「記録がないからという理由で、どうして却下しつづけられるのか、理解できない。だれでも枯葉剤を使っていた沖縄で、1998年裁定が当てはまるのは限られたひとつの例だけだなどと誰が信じると思うのか。」
シパラが言っているV.A.の裁定というのは、2007年に報告され世界的なニュースになったものだ。
1998年1月付けで、1961年から62年の間に沖縄の路肩に噴霧しトラックで運搬したエージェント・オレンジを浴びたと主張した退役軍人の事件に関する1998年1月付けの裁定のことである。兵士はそのために前立腺癌を患った。
V.A.は、「この退役軍人が沖縄で軍務中にダイオキシンに晒された可能性を根拠づける信頼できる証拠がある」と退役軍人の側に立つ結論を出したのである。
この裁定は、最終的に米軍がこの島でエージェント・オレンジを使用したことを認める道を拓くだろうという期待をもたらした。
今日に至って、しかし、1998年裁定は、沖縄駐留軍人のうちただひとつの成功例にとどまっている。
何年にもわたってV.A.は、先の決定は判例として確立していないと、何百という同様の要求を却下している。
2010年のある却下の文書には、「それぞれの事件は、個別の事実に基づいて決定される」なる文言が書かれていた。
しばしば、V.A.は、エージェント・オレンジの使用に関して手書きの文書証拠を求める。
そのような文書は、しかし、追求不可能であることが判る。化学品を浴びた兵士の入院記録が事件直後にいかに紛失するものか、スリートはよく知っている。
シパラは、「手書きの命令書など存在しない。我々は何をしろと口頭で言われ、それをしたのだ。国防省は起こったことを簡単に忘れることができるような仕組みになっているんだ」と言い足した。
当時の軍事行動の機密度が、退役軍人が沖縄についての情報を入手することをいっそう困難にしている。
たとえば、1960年代を通じて、アメリカが生物化学兵器を貯蔵していただろうと沖縄住民は考えてきた。
しかし当局は1969年になって、神経ガスが漏れ23名の米兵が負傷するまで、この主張を認めなかった。
この事件をめぐる国際的な非難の高まりを背景に、軍は、レッドハット作戦を実行した。
1万2000トンもの毒ガス兵器を沖縄から太平洋の真ん中にあるジョンストン島へ移送する、8ヶ月に及ぶ作戦である。
退役軍人の多くは、軍が、エージェント・オレンジの備蓄の大部分もレッドハット作戦の間に同時に移送したと信じている。
かれらの推測がどうやら正しいことを示すのは、「レッドハット作戦の記録が、1969年8月から1972年3月にかけて、沖縄に枯葉剤が貯蔵され、後に廃棄されたことを示している」という2009年のV.A.の裁定だ。
マイヤーズの2004年の否定と直ちに矛盾するこのような文書は、救済を求める退役軍人をいらだたせ続けている。
しかし、楽観できる見通しもある。
2000年まで、米国政府は、軍による枯葉剤使用はヴェトナムのみだったとしてきた。
しかし、1968年から1971年にかけて、韓国の非武装地帯での使用を証拠が明らかにし、当時そこに駐留していた退役軍人にダイオキシン関連の医療費支給が認められた。
同様に、グアムにおけるエージェント・オレンジ被曝の退役軍人を支持するV.A.の裁定に引き続き、バラク・オバマ大統領は、軍隊の枯葉剤配備地域のリストにミクロネシア領を加えるよう求める圧力をかけられている。
沖縄を、この増え続けるリストに加える可能性について問われた際に、ヴェトナム戦争海軍退役軍人会の議会における代弁者であるジェフ・ディヴィスは、三方向による取り組みを実施するよう助言した。
「第一に、噴霧器を背負ったり、トラックに積み込んだり、ヴェトナムを往復する輸送船からの積み込みや積み卸し作業を補助したということを証言する個々の宣誓供述書。次に、沖縄に駐留した退役軍人の間に、エージェント・オレンジ関連と公認されている一連の疾患の罹患率が非常に高いという調査。最後に、科学的根拠、すなわち、ダイオキシンの存在を示す飲料水や土のサンプル(を集める必要がある)」。
この最後の点は、退役軍人たちに枯葉剤関連の疾病を証明できる希望の道を拓く。
しかし、それは同時に、恐ろしい予想を招来する。
ダイオキシン被曝は、現在駐留中の米兵とその家族たちにも及んでいるかもしれないということだ。
退役軍人の説明でもっとも多く言及される地域は、嘉手納空軍基地と、北部訓練場で、現在もなお、米軍の管理下に置かれ続けている場所である。
皮肉にも、このことは、危険性をアメリカ管理地域に閉じ込めることによって、沖縄の市民の大多数を、ダイオキシン被曝から守っていると言えるのかもしれない。
2009年、科学者たちは、ヴェトナムで、戦中に米国がエージェント・オレンジを貯蔵していたダイオキシン危険地帯を発見した。
正確に類推するならば、沖縄の現在の基地は、軍の枯葉剤によって重度に汚染されたままということになるだろう。
いずれにしても、政府が、かつて国に仕えた人々への義務を無視し続ける間に、V.A.に要求を拒絶され続ける何百という退役軍人たちが、いっそう病に冒され続ける日々が続くのだろうと、シパラは考えている。
「退役軍人の間では、V.A.の非公式のモットーとは『認めない、認めない、彼らが死ぬまで』だと言わ
れている。政府にかれらが行ったことを認めさせる唯一の方法は、私たちがもっとたくさん立ち上がって、世界に向けて自分たちのことを話すことだ」。
本稿発表の時点において、『ジャパン・タイムズ』のコメントの要求に対し、米国退役軍人管理局も、国防省も、無回答のままである。
沖縄とエージェント・オレンジに関する経過
1952 サンフランシスコ条約で沖縄は米国管理下に
1962 米空軍、沖縄で米の収穫に生物兵器実験
1963 米輸送船、おおよそ1万2000トンの生物化学兵器を沖縄に搬入
1969 嘉手納空軍基地で神経ガス漏れ、23人の米兵が病院へ
1971 レッドハット作戦、生物化学兵器の在庫をジョンストン島へ移送
1972 沖縄の施政権が日本へ返還される
1998 V.A.沖縄のエージェント・オレンジ被曝を主張する退役軍人に賠償
2004 米政府、沖縄におけるエージェント・オレンジを否定
2009 V.A.決定、レッドハット作戦にエージェント・オレンジが含まれていたことに言及
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Youtubeより:ジョン・ミッチェルがスカイプで記録したインタビュー。枯れ葉剤が60年代初めから70年代初めまで沖縄で米軍に貯蔵され、噴霧され、埋められた事実を語っています。
Youtube: Interview recorded by Jon Mitchell from The Japan Times via Skype.
Agent Orange (Dioxin) was store, sprayed and buried on Okinawa
from the early 60's to the early 70's by the US military there.
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ジョン・ミッチェル氏による沖縄の枯葉剤問題の経過説明などはこちらで
1970年、ジョー・シパラは、沖縄本島中部にある泡瀬通信施設に勤務していた。
「アンテナは『ミッション・クリティカル(mission critical: 24時間365日稼働を要求される基幹的システム)』に分類されていたため、周囲に雑草が生い茂ることは許されません。数週間おきにトラックが来て、この施設のエージェント・オレンジの缶を充填していました。それを混合して境界線のフェンス周辺の雑草に噴霧するのが私の担当でした」。
『ジャパン・タイムズ』紙のためにインタビューに答えたこの3人の退役軍人だけでなく、退役軍人管理局(V.A.)の記録には、1960年代末から1970年代初頭にかけて沖縄で使用されたエージェント・オレンジについて、数百に上る同様の証言が存在する。
当時、この島は米国支配下にあり、ヴェトナムにおける米国の戦闘の前線基地としての役割を担わされていた。
これらの証言が明らかにするのは、ダイオキシンを含む枯葉剤が、戦闘地域に移送される前に、沖縄に大規模に貯蔵されていただけでなく、軍事施設の除草や、北部の山原(やんばる)のジャングルでの実験に定期的に使用されていたという事実である。
島におけるこの長期で広範囲にわたるエージェント・オレンジの使用は、それを取り扱った兵士の多くに深刻な病状をもたらした。
スペンサー、スリート、シパラは、現在、癌、2型糖尿病、虚血性心疾患など、止めどなく続くダイオキシンにまつわる症状に悩まされている。
さらに、シパラの死産となった最初の子は、赤ん坊が日の目を見なかったことを感謝するべきだと医者に言われるほどの奇形で、生誕したふたりの子どもはエージェント・オレンジによる中毒症状と合致する奇形に冒されている。
もしもかれら退役軍人たちが、ヴェトナムで[枯葉剤を]浴びていたならば、米国政府は有害な枯葉剤に接したすべての兵士を承認しているため、V.A.による医療費の補助を受けることができただろう。
しかし、かれらは沖縄で被害に晒されたために、その補償要求は、この島でのエージェント・オレンジの存在を認めない国務省のために、繰り返し拒絶されてきた。
2004年7月、統合参謀本部議長リチャード・マイヤーズ大将が、政府の「記録には沖縄におけるエージェント・オレンジやその他の枯葉剤の貯蔵や使用を裏付ける情報は一切ない」と発表したのは、こうした姿勢を示すもっとも最近の一例である。
このような否定のために米退役軍人がV.A.から補償を勝ち取るのが困難になっている。
シパラの例は、退役軍人が向き合う困難を如実に示している。
彼の軍命令書は、当時かれが沖縄に駐留していたことを示しているし、彼の病歴は、ダイオキシン被曝の症例に合致する。
バイクに乗ってエージェント・オレンジの缶の横を通り過ぎる彼の写真は、決定的証拠として、彼のケースが退役軍人たちを代表すべきことを物語っている。
11ヶ月に及ぶ協議の後、V.A.は、二つの根拠を挙げてシパラの要求を拒絶した。
第一に、被曝によって病気が進行したという証拠がない。
シパラはこれに反論している。「沖縄から帰還した直後に糖尿病を発症したことは、私の医療記録から明らかです。なぜその当時の医者は、それがエージェント・オレンジによるものだと言わなかったのでしょうか。それが1970年のことで、まだ誰も被曝の危険性についてよく知らなかったからです。」
第二に、V.A.は、「日本の沖縄における、あなたの隊の兵員による、エージェント・オレンジの噴霧、試験、貯蔵に関するいかなる証拠も見つけることができなかった」と言った。
この言葉は、V.A.が却下する際に共通の表現で、そのことが、シパラを困惑させた。
「記録がないからという理由で、どうして却下しつづけられるのか、理解できない。だれでも枯葉剤を使っていた沖縄で、1998年裁定が当てはまるのは限られたひとつの例だけだなどと誰が信じると思うのか。」
シパラが言っているV.A.の裁定というのは、2007年に報告され世界的なニュースになったものだ。
1998年1月付けで、1961年から62年の間に沖縄の路肩に噴霧しトラックで運搬したエージェント・オレンジを浴びたと主張した退役軍人の事件に関する1998年1月付けの裁定のことである。兵士はそのために前立腺癌を患った。
V.A.は、「この退役軍人が沖縄で軍務中にダイオキシンに晒された可能性を根拠づける信頼できる証拠がある」と退役軍人の側に立つ結論を出したのである。
この裁定は、最終的に米軍がこの島でエージェント・オレンジを使用したことを認める道を拓くだろうという期待をもたらした。
今日に至って、しかし、1998年裁定は、沖縄駐留軍人のうちただひとつの成功例にとどまっている。
何年にもわたってV.A.は、先の決定は判例として確立していないと、何百という同様の要求を却下している。
2010年のある却下の文書には、「それぞれの事件は、個別の事実に基づいて決定される」なる文言が書かれていた。
しばしば、V.A.は、エージェント・オレンジの使用に関して手書きの文書証拠を求める。
そのような文書は、しかし、追求不可能であることが判る。化学品を浴びた兵士の入院記録が事件直後にいかに紛失するものか、スリートはよく知っている。
シパラは、「手書きの命令書など存在しない。我々は何をしろと口頭で言われ、それをしたのだ。国防省は起こったことを簡単に忘れることができるような仕組みになっているんだ」と言い足した。
当時の軍事行動の機密度が、退役軍人が沖縄についての情報を入手することをいっそう困難にしている。
たとえば、1960年代を通じて、アメリカが生物化学兵器を貯蔵していただろうと沖縄住民は考えてきた。
しかし当局は1969年になって、神経ガスが漏れ23名の米兵が負傷するまで、この主張を認めなかった。
この事件をめぐる国際的な非難の高まりを背景に、軍は、レッドハット作戦を実行した。
1万2000トンもの毒ガス兵器を沖縄から太平洋の真ん中にあるジョンストン島へ移送する、8ヶ月に及ぶ作戦である。
退役軍人の多くは、軍が、エージェント・オレンジの備蓄の大部分もレッドハット作戦の間に同時に移送したと信じている。
かれらの推測がどうやら正しいことを示すのは、「レッドハット作戦の記録が、1969年8月から1972年3月にかけて、沖縄に枯葉剤が貯蔵され、後に廃棄されたことを示している」という2009年のV.A.の裁定だ。
マイヤーズの2004年の否定と直ちに矛盾するこのような文書は、救済を求める退役軍人をいらだたせ続けている。
しかし、楽観できる見通しもある。
2000年まで、米国政府は、軍による枯葉剤使用はヴェトナムのみだったとしてきた。
しかし、1968年から1971年にかけて、韓国の非武装地帯での使用を証拠が明らかにし、当時そこに駐留していた退役軍人にダイオキシン関連の医療費支給が認められた。
同様に、グアムにおけるエージェント・オレンジ被曝の退役軍人を支持するV.A.の裁定に引き続き、バラク・オバマ大統領は、軍隊の枯葉剤配備地域のリストにミクロネシア領を加えるよう求める圧力をかけられている。
沖縄を、この増え続けるリストに加える可能性について問われた際に、ヴェトナム戦争海軍退役軍人会の議会における代弁者であるジェフ・ディヴィスは、三方向による取り組みを実施するよう助言した。
「第一に、噴霧器を背負ったり、トラックに積み込んだり、ヴェトナムを往復する輸送船からの積み込みや積み卸し作業を補助したということを証言する個々の宣誓供述書。次に、沖縄に駐留した退役軍人の間に、エージェント・オレンジ関連と公認されている一連の疾患の罹患率が非常に高いという調査。最後に、科学的根拠、すなわち、ダイオキシンの存在を示す飲料水や土のサンプル(を集める必要がある)」。
この最後の点は、退役軍人たちに枯葉剤関連の疾病を証明できる希望の道を拓く。
しかし、それは同時に、恐ろしい予想を招来する。
ダイオキシン被曝は、現在駐留中の米兵とその家族たちにも及んでいるかもしれないということだ。
退役軍人の説明でもっとも多く言及される地域は、嘉手納空軍基地と、北部訓練場で、現在もなお、米軍の管理下に置かれ続けている場所である。
皮肉にも、このことは、危険性をアメリカ管理地域に閉じ込めることによって、沖縄の市民の大多数を、ダイオキシン被曝から守っていると言えるのかもしれない。
2009年、科学者たちは、ヴェトナムで、戦中に米国がエージェント・オレンジを貯蔵していたダイオキシン危険地帯を発見した。
正確に類推するならば、沖縄の現在の基地は、軍の枯葉剤によって重度に汚染されたままということになるだろう。
いずれにしても、政府が、かつて国に仕えた人々への義務を無視し続ける間に、V.A.に要求を拒絶され続ける何百という退役軍人たちが、いっそう病に冒され続ける日々が続くのだろうと、シパラは考えている。
「退役軍人の間では、V.A.の非公式のモットーとは『認めない、認めない、彼らが死ぬまで』だと言わ
れている。政府にかれらが行ったことを認めさせる唯一の方法は、私たちがもっとたくさん立ち上がって、世界に向けて自分たちのことを話すことだ」。
本稿発表の時点において、『ジャパン・タイムズ』のコメントの要求に対し、米国退役軍人管理局も、国防省も、無回答のままである。
沖縄とエージェント・オレンジに関する経過
1952 サンフランシスコ条約で沖縄は米国管理下に
1962 米空軍、沖縄で米の収穫に生物兵器実験
1963 米輸送船、おおよそ1万2000トンの生物化学兵器を沖縄に搬入
1969 嘉手納空軍基地で神経ガス漏れ、23人の米兵が病院へ
1971 レッドハット作戦、生物化学兵器の在庫をジョンストン島へ移送
1972 沖縄の施政権が日本へ返還される
1998 V.A.沖縄のエージェント・オレンジ被曝を主張する退役軍人に賠償
2004 米政府、沖縄におけるエージェント・オレンジを否定
2009 V.A.決定、レッドハット作戦にエージェント・オレンジが含まれていたことに言及
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Youtubeより:ジョン・ミッチェルがスカイプで記録したインタビュー。枯れ葉剤が60年代初めから70年代初めまで沖縄で米軍に貯蔵され、噴霧され、埋められた事実を語っています。
Youtube: Interview recorded by Jon Mitchell from The Japan Times via Skype.
Agent Orange (Dioxin) was store, sprayed and buried on Okinawa
from the early 60's to the early 70's by the US military there.
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ジョン・ミッチェル氏による沖縄の枯葉剤問題の経過説明などはこちらで

これは、このトピックについて知りたいと思うだれでものための素晴らしいブログです。すべての人にこのような素晴らしい情報をいただきありがとうございます。
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